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第2章 音と体=聴こえ方で音は変わる
「耳ヂカラ」は「聴きたい音・欲しい音」を聴き分け聴き取る力
☆「表現したい音・音楽」は「聴きたい音・音楽」
自分が自分で「聴きたい音」を聴くことができなければ、「表現したい音・音楽」にはなりにくいのではないでしょうか。
ただし自分では気付いていなくても「表現したい音・音楽」が当たり前のこととして聴けてしまっている人は別として。
(当たり前にできる人を普通天才と言うのでしょう。私の身近にも・・・いるんです、悔しいことに)。
つまり、自分が「表現したい音・音楽」が自分の思い・イメージと結びついた音として聴こえることが重要なのです。
自分の「表現したい音・音楽」が聴こえていれば、自分のイメージを自然に表現できていることに他ならないのです。
自己表現の原点は、「聴きたい音・音楽」を求めて、外の音が聴こえること
=「聴こえる耳」を持つ「耳ヂカラ」を身につけてゆけること。
「聴こえる耳」を持つ「体」が必要なのです。
身体は楽器 = 耳(耳ヂカラ)から身体への伝達・共鳴
一般的な人間は身長・体重・胸囲等々体格の違いは当然のこととして、性格の違いも含めて、十人十色です。
一方で親子・兄弟のように顔つき・骨格が似ていれば性格も似ることがあることも事実です。
そして一人一人に個性が存在していると言うことは、一人一人個性のある他人とは違った「体は楽器」が
存在するということになります。
親子・兄弟のように似た身体であれば、似た「楽器」が存在することのように。
一人一人個人は自分の「声」を持ち、「耳ヂカラ」を通して(きっと無意識のうちに・・・)
体である「楽器」にイメージを伝達・共鳴させているのです。
つまり親子のように、生活圏が近くに存在する人たちの「声」に接していることにより、
「耳」は同じ「声」の響きになれ(言語を自然に話せることと同じように・訛りまでも)て、
骨格・体格を超えて似てゆくのです。
そこで「体は楽器」として捉えるために重要なこと、「声」を「音」に置き換えて考えてみましょう。
「音」はただ出す(無意識のうちに発する)のではなく・自己表現するのではなく、
自分が「聴きたい音」のイメージをはっきりと意識して「耳ヂカラ」を機能させ、
「聴きたい音」がイメージ通りに「聴けること」なのです。
そうして各個人が「聴こえる力」=「耳ヂカラ」を十分に機能させることができれば、
その人なりの音色・響きを持つ個性豊かな「体=楽器」になることができるのです。
「体が楽器」になるということは、実際に「音・声」を出す時に自身の表現したいイメージそのものを、
「耳ヂカラ」を通して体に伝達・共鳴させることができ、「音・声」を豊かな響きとして描き、自己表現できることに結び付くのです。
自分の音を「外の耳」で聴く=聴こえる音が自分の音
言い方を変えれば、楽器から発せられた「音」はベルから外の世界・空間に飛び出していきます。
その外に発せられた「音」を「外の耳」=「目の前のポイントで聴こえる耳」を・鼓膜を通して「聴く・聴こえる」、
というこの一連の作業が上手く出来ている時に、「外に発した音」が「外の耳」で「聴こえる」=「耳ヂカラ」が機能して
「聴きたい音・音楽」=「自分が納得できる音・音楽」ができることに結びつくのです。
つまり「外に発した音」が目の前のポイントで「聴こえた」ということは、
「聴きたい音」を鼓膜に伝達・共鳴できたということになり、
自身の体へ「音」の振動を伝達・共鳴させるための準備ができていることになるのです。
そうして鼓膜が取り込んだ「外に発した音」振動を、「自分が納得できる音・音楽」として体がはっきりと受け入れ・
聴き入れ伝達・共鳴させることが自己表現に結び付くのです。
そしてその「外から聴こえてくる音」の伝達・共鳴を確かなこととしてできるためには、
「体のポジション」・「姿勢と呼吸」が「聴こえる耳」=「耳ヂカラ」と同様に重要なことになります。